ひとりごと

"中人"であれよ

また来てマチ子、の力学

まず、前回書いたように、

"マチ子の死"は"松野さんの死"と対応していて、

時間が進まない町山家は、

松野さんを好きだった人たちの前向きに生きられない心情を表している、

ということまでは確実です。

 

あえて話の細部を見ないで、

全体をここからを考えてみます。

 

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安本さんの主演した同じく土屋脚本の舞台を先日観ましたが、

その内容からすると、

この脚本も最終的にはお話のツジツマとかはぶっ飛ばしてくる可能性もあるので、

まずそれを念頭においておきます。

 

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それはさておき、

では『ロボサン』や『刑事ダンス』のときのように、

ある程度順当に展開する場合を考えてみましょう。

 

私が前回書いた説というのは、

物語上の問題点があって、

間違っていると予想しています。

でも答えがわからないのでとりあえずああいう感じで書きました。

 

問題点とは、コメント欄で指摘もあったように、

マチ子の恋を成就させることが難しいということです。

 

マチ子の死の遠因が失恋であった場合、

それを解決したいというのは当然なのですが、

本当に解決できてしまうと、

マチ子の死の重みというものがなくなってしまいます。

 

「マチ子が良い恋が出来たからそれでOK」とか、

「失恋しなかったからOK」ということになると、

死の重み=生きたことの重みを否定することにもなるわけです。

タモツにとってのマチ子はその程度の軽さではないのです。

 

つまり、

マチ子が失恋した上で、

そして死ぬ=旅立っていく、

の現実="幸せな未来"として、

最終回までにタモツに解釈させないといけません。

これが本線です。

 

しかしそういう物語を書くのは大変です。

(ちまたに溢れる、

黒イケメンと白イケメンで悩む少女のドラマとは格が違うのです。)

 

だって失恋し、そして死ぬ、

それが"幸せな未来"ってどういうことなんでしょう。

 

それは松野さんの周囲の人々やファンが、

みんな求めていることでもあります。

このことに挑戦しているとしたらスゴイです。

 

その場合、

脚本家の力量がめちゃくちゃ必要なわけです。

 

(答えの出し方としては、

マチ子はすでに一人前であり自分の人生を生きたのだ、

というくらいしか私は思いつきません。

それはタモツが"父親代わり"であり、

マチ子を子供扱いしているところからも、

そう推測します。)

 

(もしくは、

"永遠"が救いなのだ、

と言ってしまうのかもしれない。

でもそれで良いのか?

やはり永遠を捨ててでも、

現実を生きる勇気を描くんだと思います。)

 

だからこの本線で物語を走りきった場合、

必然的に傑作になるのです。

 

どうするんでしょうね。

 

難しいので、

裏設定は匂わすだけで結局特に本編で解消せず、

スルーして終わる可能性もあります。

それでも充分に立派な内容だと思います。

というか多分そうなると思います。

 

 

まあまだ色々わかりまんが。